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広島高等裁判所 昭和39年(ラ)4号 決定

抗告人 浦辺光男(仮名)

主文

原審判を取り消す。

抗告人の氏「浦辺」を「平田」と変更することを許可する。

理由

本件抗告の趣旨ならびに理由は別紙記載のとおりである。

つて判断するのに、本件記録に添付されている筆頭者浦辺光男・同平田幸子の各戸籍謄本三通、当審における上野京子審問の結果、原審および当審における抗告本人審問の結果を綜合すると、

一、抗告人は昭和二二年三月五日平田幸子と挙式して、○○市○○九○三番地の同女方(当時は母平田きよこ、現在は姉上野京子の所有にかかる家屋)で同棲し、昭和二三年三月一八日婚姻の届出をしたこと、

二、抗告人は父浦辺平作・母同みか間に出生した五男二女のうちの五男であり、その長兄は岡山県○○郡○○村大字○○○○八三四番地で農業に従事していること、

三、幸子は父中村成男・母平田きよこ間に出生した三女のうちの末子であり、長女京子は昭和一四年一〇月四日上野鉄男に嫁ぎ、次女まり子は戦時中に死亡したため、幸子ひとり生家に残り、祖母かや・母きよことともに「平田」の姓を称していたこと、

四、右二、三のような事情があつたので、抗告人は幸子と話合いのうえ、その婚姻につき、妻の氏たる「平田」を称する届出をしたこと、

五、抗告人は幸子との間に昭和二三年二月五日長男一男を、昭和二六年一〇月一六日二男次男を儲けたが、夫婦の性格が合わないためにその仲は面白くなく、昭和三二年一〇月二八日岡山家庭裁判所津山支部の調停で、夫婦は今後別居するとの合意が成立し、幸子はかねてより都会生活に憬れていたので、家を出て東京に赴き、抗告人は京子と相談のうえ、現家屋にとどまつて二児を養育することとなつたこと、

六、昭和三五年頃にいたり、抗告人はいつまでも幸子との間に別居を続けるのは、二児の教育上好ましくないので、できれば幸子を連れ戻して同居しようと考え上京したが、幸子はすでにアパートの一室で他の男と同棲して二児のもとに帰る意思のないことを表明し、ここに婚姻関係は破綻して事実上離婚状態に陥り、抗告人は幸子との同居を断念するほかはなかつたこと、

七、その後抗告人は幸子より数回にわたつて離婚の手続をするように求められ、昭和三八年二月頃には、幸子が他の男と結婚式をあげたという噂を耳にしたので、京子とも相談のうえ、同年一〇月二八日協議離婚の届出をして、婚姻前の「浦辺」の氏に復したが、その生活関係は従前と格別かわることもなく、引き続き現住居(婚家)で「平田」を称する二児の親権者としてこれを監護教育するとともに京子より依頼されて平田の祖先の祭祀を行なつていること、

八、抗告人は幸子と婚姻後衣料品等の行商をしていたが、昭和二六年四月頃に、京子の夫鉄男の勧めにより、○○産業株式会社(津山出張所)に入社し、昭和三〇年頃には同出張所長に就任しパルプ材の購入・販売等業者と交渉の多い業務を担当し、現在にいたるまでの間に同会社だけでなく、抗告人個人としてもパルプ業界に相当の信用をえていること、

をそれぞれ認めることができる。

抗告人が昭和三八年一〇月二四日幸子との法律上の離婚により、「浦辺」の氏に復するのは民法第七六七条の定めるところであるが、離婚後における事実上の生活関係は、右に認定したとおり従前と格別変わるところはなく、現住居(京子所有の家屋)にとどまつて、「平田」の氏を称する二児を養育し、幸子のただ一人の姉である京子とも引き続き親族としての交際を続け、同人より依頼されて平田の祖先の祭祀を行なう等、実質上なんら従前と異なるところのない家庭生活を送つているのであるから、法律上の離婚(離婚の届出)がなされたということのみによつて、抗告人に「浦辺」の氏の使用を強いることは、抗告人の家庭的生活関係にそぐわないところであり、しかも抗告人はこれまで一〇余年の久しきにわたり社会的経済的生活の全領域において「平田」の氏を称し、パルプ業界にも相当の個人的信用をえているので、抗告人の氏を「浦辺」より「平田」と変更するにつき、戸籍法第一〇七条一項に定めるやむをえない事由があるものと言うことができる。

そうすると本件氏の変更の申立てを却下した原審判は不当であつて、本件抗告は理由があり、特別家事審判規則第一条、家事審判規則第一九条第二項により主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 柴原八一 裁判官 西内辰樹 裁判官 可部恒雄)

抗告理由 省略

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